肝要なのは「合理的配慮」

社会福祉の現場で広がる「合理的配慮」について

「合理的配慮」という言葉は、障害者の権利に関する条約の第二十四条に定められている、教育の場面において障害者が健常者と同じように権利を認められるようにするための施策全般のことをいいます。

具体的には障害のある児童生徒への教育を行う機関において、教員や支援員を確保したり、施設や設備を整備すること、あるいは個別の教育支援計画を柔軟に行っていくという事です。

これまでも一般の教室での授業を受けるのが困難な児童生徒に対して、「特別支援学級」として專門の教育プログラムを行うということは広く行われてきました。

しかし近年においてはより障害のある人の視点に立ち、それぞれの状況に応じた対応をとっていくようにという指導がなされています。

これは「発達障害」についての理解が社会全体に広がることで、それまでは個人や家庭教育に責任を一方的に押し付けてきたことを社会全体で支援して行こう、という流れに変化したことが大きいです。

特に学校教育の現場においては教師への指導が浸透してきたことにより、それぞれの子供の様子に応じた対応を地域全体でとっていくことができるようになりました。

一見他の子と変わらないように見える児童も、学習態度や生活習慣に大きな問題があり、何度注意をしても全く効果がないというような事もあります。

そうした時に今までのように厳しく叱責をしたり、両親を呼びつけて説教をしたり、または体罰を加えて無理やり言うことを聞かせようとするやり方では全く本人のためになりません。

そこで発達障害と診断された子供に対しては、より本人にとってやりやすい環境を整えるとともに教材や設備を整えていくということが求められます。

「必要かつ適当」な配慮とは?

ここで問題になるのが、それぞれの障害者にとっての配慮のうち、どこまでが合理的であるかということです。
例えば身体障害者を例にとってみると、車椅子で移動をしている人にとって自力で登るのが困難な段差を取り除き階段にスロープをつけるということは「合理的配慮」になります。

しかし車椅子を使用しなければいけないからといって、移動の時に常に介助人が付き、どこにいくのも車を用意するといったようなところまでするのは、いくらなんでも過剰です。

知的障害についても、例えば読字障害のある子供に対し、学習しやすいように音読できるタブレットや視覚的に理解しやすいテキストを用意するのは「合理的配慮」ですが、全く勉強しなくてもよいようにするというのは誤った配慮です。

どこまでを「必要かつ適当」な配慮とするかの線引は難しく、障害者本人がどこまでのことを望んでいるかによっても変わってきます。